”ヒトが死ぬ”ということについて考えてみた

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”ヒトの死”とはどんな状態なのか

”電通”の高橋まつりさんの過労死問題を受けて。”ヒトの死”について考えました。

【社会】電通、高橋まつりさん過労死認定後も新入社員に対し、不適切な労務管理を繰り返す

電通の消灯時間が22時になったり、「労務の問題を改善しています!」という外部パフォーマンスが目立つ今日この頃。

”ヒトの死”ということについて考えてみた。

ヒトはどの瞬間、死んでしまうのか。

一般的に”人が死ぬ”定義は『心肺停止状態』になった時。心臓が動いていない状態。もしくは、心肺機能は働いているけど、植物状態になっている、脳死の状態。

これが”人の死”です。もうこの世界に意識が存在しない状態。会うこともできなければ、話す子こともできない。”今生の別れ”を意味します。

でも、僕が知りたい”ヒトの死”はそんな当たり前のことじゃない。

そこに存在しているからといって”生きている”とは限らない

僕はいま、この世界に存在しています。毎日呼吸して、ご飯を食べて、体を動かして、誰かと話をしたり、仕事をしたり、いわゆる”生活”をしています。

周りの人たちは僕のことを見ることができるし、触れることができる。存在を確認することができる。

定義的には”生きている”わけです。

でも、本当に生きているのかなって。いま、僕の目に映るどこの誰かわからない人たちは本当に”生きている”のかなって。

僕は、違うと思うんです。

確かに、”人”として生きていることには間違いない。

でも、”ヒト”として生きているかどうかは僕にはわからない。

ほとんどの人たちは、”ヒト”として生きてると思います。これは紛れもない事実。でもね、世の中には”ヒト”として生きることができていない人もいるんだと思います。

僕が考え、辿り着いた”ヒトの死”

”ヒトが死ぬ”時って、どんな時か?

それは『考えるのをやめたとき』もしくは『考えることができなくなったとき』だって結論に辿り着きました。

もちろん、先に話した死の定義もこれに当てはまります。もう考えることができない状態ですから。

ただ、この世界で息をして、ご飯を食べて、人と話して、と生活をしているからといって生きているのかどうかは僕から見たらわからない。

思考を停止したとき、”ヒトとして死ぬ”瞬間が訪れるんだなって。

ヒトは”社会”に殺される

ちょっと過激な発言かもしれないですね。でも、今日は思ったことを書きたいと思います。

生まれたての赤ん坊は、目の前に広がる世界がすべて新鮮。だから何にでも興味を示すし、大人が思いもよらぬ行動をする。

何も知らないから、知りたいと本能で思うし、考える。考えて考えて、それこそ”試行錯誤”し続ける。そして、そのことを周りから賞賛される。「うちの子は天才かもしれない」とか「なんてすごい発想なんだろう!」とか。赤ちゃんのときは他の人と違うことが賞賛される。

ただ、成長するにつれ、だんだんと知っていることも増えて、経験から行動することが増えて、ヒトは考える機会が減っていく。常に新しいことを仕掛けているヒトは、考えることをやめないけど、ほとんどの人たちは構築されたシステムの中で考える機会を奪われ、歯車となっていく。

もちろん、自分で考えることをやめてしまった人たちもいるかもしれないけど、ほとんどの人は”社会のルール”とか”組織のルール”みたいなものの中で、”誰でもできること”を”他の人と同じように”やらされるようになる。

そこには自分の意見なんて関係なくて、必要なくて、常に”社会の生き方”や”組織の生き方”が優先される。そして、”他の人と同じ”ことを求められる。

もはや、自分なんてものは必要ない。組織の意志に従って、祖師機にとって都合のいい”機械”となっていく。すこしでも道を外れようものなら「お前は間違っている」「他の人はみんなやっている」「自分だけがつらいと思うな」などと罵声を浴びせられる。

自分を失った人の末路は?

もちろん、それでも大丈夫な人はいる。周りから何を言われても気にしない人もいる。組織の体制に辛さを感じない人もいる。

でも、それだから何だ?組織のルールが偉いのか?社会のトップが偉いのか?

違うだろ。そんなの絶対違うだろ。

「みんなだって残業している。甘えているのはお前だ」って何だ?

違うだろ。そんな状態になっている原因を解決しろよ。

「つらいなら辞めればいいじゃん」

違うんだよ。確かに辞めればいいってのは間違ってない。でも、自分がその状況になった時、同じことを自分に言えるのか?言えないだろ?

”ヒトが死ぬ”のは考えることをやめたとき。言い換えれば”考えることができなくなったとき”。

このとき、高橋まつりさんはすでに”考える”ことができなくなっていたんだと思う。考えることができなくなったとき、ヒトは死ぬ。

そのことをどれだけの人が知っているんだろう。それだけの人が気にしているんだろう。

誰も気にしてない。だって、僕たちは組織によって使われている”機械”だから。誰もヒトとしてみちゃいない。

だから、少しでもつらいと思ったときに、それを伝えられる人が近くにいることが大事なんだよ。会社の中ではなく外に。

僕たちは”伝える”だけじゃなく”伝えられる”人にもならないといけない

誰にも言えずにSOSを発信できない人がいるのは、何もその人が悪いわけじゃない。

悪いのは周りの環境でもある。言える人がいないっていうのは、僕たちが言ってもらえる人になれていないから。

高橋まつりさんの鼻親が「私は何度も死ぬなって言った」と話している。「何度も帰って来いと言った」とも。

僕にはわからない。ただ、思うのは、母親は一度でも高橋まつりさんの元へ自分から行ったのか。迎えに行って、家に連れて帰ったのか。わからない。

僕が言いたいのは”母親が悪い”ということではない。

世の中がそういった問題に対して耐性がないことが問題だってこと。

今回の件も、電通のブラックぶりを報道し続け、世の中の企業の働き方を見直せという内容になっている。

でも、違うんだ。問題はそこじゃないんだ。

労働環境が変われば、過労死問題は解決する?働く時間が短くなれば、自殺する人は減少する?

そんなわけないだろ。

確かに働く時間が短くなれば、体力面は大幅に改善されるでしょうね。でもさ、問題の根本の解決にも何にもなってない。

働く時間が短くったって、つらいと感じる人はいるんだよ。

そんな人たちに対して、投げかけられる言葉は?容易に想像つくよ。

「昔はもっとつらい状況で、帰れない時もよくあったよ。今は楽でいいよな。これで仕事つらいって言ってたら、何もできないよ?」

昔とか、そんなの関係ないからね。いま辛いっていってる人に浴びせる言葉じゃないでしょ。

結局さ、人は自分のことしか考えてないから、人を救えない。

このままじゃダメだ。

僕たちに必要なのは、そういう辛さを抱えている人がいることを知ること。そして、受け入れること。傷の舐め合いかもしれないけど、それでも受け入れて、受け入れられて、を繰り返すこと。

最後に

話がとっちらかってしまっている部分もあるかと思います。何が言いたいのか、わからない部分もあると思います。

それでも、ここまで読んでくれたことを感謝します。

最後に、僕が言いたかったことをまとめます。

  • ヒトは考えられなくなった時に死ぬ
  • 社会・組織はヒトを守ってはくれない
  • 考えられなくなる前に、相談できる人を作っておく
  • 自分自身も相談してもらえる人になること
  • みんなで支えあって生きて行く必要がある

僕たち人間という種族は、弱いからこそ、種を反映させて生き延びてきました。もう一度、手を取りあって、支えながら生きていきましょう。

終わります。

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